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2005年10月

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メイドカフェ


世の中には、さまざまな種類の喫茶店・カフェが存在してきた。

純喫茶、ジャズ喫茶、ゴーゴー喫茶、ノーパン喫茶、
オープンカフェ、メシカフェ、スポーツカフェ・・・

とにかく、時代に呼応してさまざまな店舗形態が出現してきたが、
いまはやはり、これだろう。



メイドカフェ(メイド喫茶)



店員がメイドの格好しているから、メイドカフェ。

現代が運んできた、新しいカフェの形態である。

僕は残念ながら行ったことがないので何とも言えないのだが、
いろいろな情報から推測する限り、なかなか興味深い空間だ。


なにしろ「ご主人様」呼ばわり、である。


入店した途端、最上級の呼称である「ご主人様」なのだ。

さっきまで、おでん缶を片手に辺りを徘徊していた者が、
メイドの前では、れっきとした「主人」になるのである。

「ご主人様」の響きに舞い上がり、店員のメイド衣装に萌え、
独自の用語を駆使しつつ、非常に専門的な会話に終始する。

現実世界に突如現われた非現実世界を堪能する、それこそに
メイドカフェの存在意義があるのならば、それはそれで良い。

需要と供給の関係からしても、たいへん結構なことである。


だが、果たして本当に彼等は「ご主人様」と呼ばれたいのか。


素人考えで申し訳ないが、その呼称が寵愛するアニメの影響か
なにかだとしても、彼等も、実はそれほど「ご主人様」などと
呼ばれることに、価値を見出してはいないのではないかと思う。

それは、たとえばフィリピンパブで「シャチョサーン」などと
呼ばれる程度のものではないだろうか。

せめて、そうであって欲しい。

否。

むしろ、そうでないと困るのである。

自分が「ご主人様」であるか否かを、本気で考えはじめると、
それはそれで大変なことになってしまう気がするのである。


仮に、彼等が“ふと我に返る瞬間”を迎えてしまうとしよう。

すると、こんな思考が働くのではないかと思うのだ。



店のドアを開けた途端に「お帰りなさいませ、ご主人様」と
お辞儀で出迎えるメイドの声に、ふと我に返り、心の奥で呟く。

「自分は果たして、本当に主人たる働きを全うできるだろうか」


優しく席へ案内してくれるメイドに、心の奥で呟く。

「メイドの貴方を前にして、主人として威厳を持てているのか」


甘い声で注文を取りに来たメイドに、心の奥で呟く。

「自分は、『ご主人様』と呼ばれる価値のある男なのだろうか」


たどたどしくドリンクを運ぶメイドに、心の奥で呟く。

「正直、自分にはその自信が無い」


持参したカメラでメイドと写真に納まりながら、心の奥で呟く。

「自分は、生れた時からの日蔭者のような気がしてゐます」


冷めたコーヒーを手にメイドを眺めながら、心の奥で呟く。

「そもそも自分には、人間の生活といふものが見当つきません」


笑顔でレジ対応するメイドに金を渡しながら、心の奥で呟く。

「思へば、恥の多い生涯を送ってきました」


店を出て、眩しい太陽の下に晒されて、遂に思う。

「もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました」










人間、失格。










メイドカフェで、太宰を語ってはいけない。



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反応するからだ


何かの影響によって、からだが勝手に反応することがある。

まず思いつくのは、音楽による影響である。

そう、人は音楽に反応する。

思わず体が動いてしまうのだ。

最初はつま先でビートを刻むだけかもしれない。
それがやがて、かかとを踏み鳴らし足全体を動かし始める。

そうなると、頭全体が上下左右するようになり、
手を、肩を揺さぶり、どんどん動きがダイナミックになる。

そして、最終的には、腰を振る。


人間、音楽、腰、である。


それは、至って自然な姿であるといえよう。



恥ずかしながら、僕は先日ようやく、やっとのことで
レイザーラモンHGをテレビで拝見した。

テレビに疎い訳ではない。元来、僕はテレビっ子である。
ということは、僕の中では、この現象がどうかと思うのだ。


話題になっている笑いを、平気で見過ごす。


少し前の自分なら、チェックぐらいはしていたはずだ。
まあ、いい。とにかく先日、ようやく見たのである。

で、正直なところ、僕は何の感慨も受けなかった。


なんでだろう?


やがて、確信した。
先の音楽の例を挙げるまでもなく、本能のままにからだを動かすと、
結局のところ、我々は腰を振る生き物なのだ。


間違いない。


あれは、単に人間の本能を誇張気味に晒しただけの姿である。
本能の赴くままに、おもむろに反応するからだを見せつけられて、
我々はどうすれば良いのだろうか。


残念。


そろそろ高速の腰振りにも見慣れてきたはずで、暫くすると


「あれ?おかしいな。腰が、遅れて、振れて、いるよ」


とか言いながら、腰を振るしか手段が無くなるのではないか。

いずれにしても、余計な心配をするより先に明らかなのは、
僕の、昨今における“お笑い事情”に関する知識が、
かなり古い時点から更新されていない、ということである。



僕はもう、いまの笑いに反応しないからだになっている。



若手芸人が、カメラの前で素で笑うのを必死で隠すフリをしている、
その様子に、とてつもない嫌悪感を覚える毎日である。

松本人志が、若手芸人の大したことないネタに平気で笑っている、
その姿が、たまらなく寂しくなってしまう毎日である。




『夢で逢えたら』を毎週ビデオ録画していた頃が、懐かしい。



そういえば、週末に久しぶりに草野球の試合に出た疲れが、
二日経った今日になって腰にきている。

無性に、あの番組が見たくなった。

ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、清水ミチコ、野沢直子。

六人の若かりし姿を見ながら、大いに笑いながら、眠りたい。

しかし残念なことに、そのテープは実家のビデオラックの奥で
ひっそりと埃をかぶっているに違いないのだった。






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おかわりの自由

僕は、いわゆる『おかわり自由』な店に弱い。

食べ放題。バイキング。ビュッフェ。

これらの謳い文句に、僕は自然と目が止まってしまうのだ。

もちろん、実はたいしてお得ではないことは知っている。
死ぬ程食べないと、元は取れないことくらい知っている。
店の利益を考えれば、その品質や押して知るべしである。

なので最近は、焼肉や寿司の食べ放題にはさほど惹かれないが、
それでも馬鹿のひとつ覚えのように惹かれてしまうことがある。

“局部的おかわりの自由”だ。

これには、未だに釣られてしまう。
メインの質はしっかり保証し、その他で量をサービスします、
そんな太っ腹なメッセージに思えてくるからかもしれない。

たとえば、とんかつ屋。
たいてい、ご飯、キャベツ、味噌汁がおかわり自由だ。
それはすなわち「メイン以外なら持ってけドロボー!」状態。

またたとえば、牛タン屋。
たいてい、麦飯がおかわり自由だ。
それはすなわち「食べても食べても、なおヘルシー!」状態。

これらの店の「おかわり自由」という札看板に引き寄せられて、
案の定、各々をおかわりするのだが、困ったことに毎回必ず



食べ過ぎて気持ち悪くなる。



とんかつと牛タンの前では、僕の学習能力はゼロらしい。
苦しくなり、おかわりしなきゃよかったと帰り際に後悔するが、
また別の日に再び行くと、もう駄目だ。

「おかわり自由」札に魅せられ、気づくと暖簾をくぐっている。

料理が置かれるや否や、とんかつの切れ数、牛タンの枚数を
即座にカウントしてしまっている自分がおり、それはつまり、



ハナから、おかわり前提でペース配分しとる。



美味しかったのは、おかわりするまでだったなあと気づくが、
どうにもならない。
まさしく判を押したように、毎回、同じ過ちを犯すのである。
自分で馬鹿じゃないかと思う。パブロフの犬じゃないかと思う。

しかし、それにも増して情けなくなるときがあるのだった。


サラダバーである。


たいてい、レストランのサラダバーはセットオプションで、
小ぶりな皿に盛り放題のセルフサービスになっている。

それはすなわち「この皿の盛れる限界にチャレンジ!」状態。

盛る。

まず盛る。

思わず盛る。

もりもりと、盛る。

もう、盛れるだけ盛る。

席に戻って存分に堪能する。

新鮮&ヘルシーでとても美味しい。

こんな時こそ野菜をたくさん取らないと。

特に、まろやかなポテトサラダなんて絶品だ。

コーンのしゃきしゃきの歯ごたえが、もう堪らない。

吟味して選んだドレッシングの酸味もとても味わい深い。

そして、ひととおり食べ終えた僕は、一息ついて思うのである。










「メイン、食えねえ」










ばかである。

呆れるほどに大馬鹿者なのだが、満を持して運ばれてきた
素敵なメインディッシュを前にして、僕は思い直す。

やはりメインあってのレストランじゃないか。

迷ったあげく決めたリヴステーキじゃないか。

ジュージューと、良い音がしとるじゃないか。

見事なミディアムレアで焼けとるじゃないか。

なんかもう、思いきりシズっとるじゃないか。

かなり、というか完全に満腹中枢は満たされているのだが、
最終的には、食べないわけにはいかないという結論に至る。

レストランに来た最大の目的が、この上質な肉であり、
今日一番のお買い上げ商品こそが、このリヴなのである。

それを食べずして、いったい何のためのディナーなのか。


やがて僕は、長い取調べの末に自供をはじめる容疑者のごとく、
ゆっくりと重い口を開くのだった。










「…にくかったんだよ」










食欲の秋である。

そして、円楽師匠の笑点への復帰を心から願う秋でもある。



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本屋と便意


なぜ、本屋に行くと便意を催すのだろう。

誰でも一度は経験されたことがあるであろう生理現象だ。
考えられる原因として、

・印刷されたインクや紙の匂いが、生理的に刺激を与える
・本を読むというリラックス感が、生理的な活性化を促す
・立ちっぱなしのまま瞼を伏せて読む姿勢が、便意を誘う

など諸説あるが、明らかになってはいないらしい。

だが、そもそも明らかにする必要など無いのではないか。
必要なのは、その現象を体感することだ。探究心は要らない。

とにかく、言えることはひとつだ。



便秘でお悩みの方は、本屋に行きなさい。



そして、ただただ、本を読みなさい。

ページを捲るたびに微かに香る紙とインクの香りに包まれて。

便意を催すまで、ひたすら読書に耽るのである。

もしかしたら、長らく便意を催すことができないでいると
見かねた店員から注意を受けることがあるかもしれないが、
そんなときは、堂々と答えればいい。


「便意を催すために、私はここに居るのです」


それを聞いた店員は、速やかに立ち去るはずだ。

そして再び、貴方は本の続きを読み始める。
もちろん、一向に便意を催す気配がなくても焦る必要はない。

リラックスした気持ちのまま、本を読む幸せをかみしめて。

自分の世界に浸りながら読書に没頭するのである。

もしかしたら、頃合いを見計らって、再び店員が貴方の元へ
やってくることがあるかもしれないが、そんなときもやはり、
堂々と答えればいい。


「本能の赴くままに、身を委ねていたいのです」


聞いた店員はまた、速やかに立ち去るはずだ。
そうして、何事もなかったかのように、貴方は続きを読む。

ずっと立ったままの同じ姿勢で、瞼を伏せたままの姿勢で。

もしかしたら、今度は店員ではなく店長らしき人物が
貴方の元へやってくるかもしれないが、そんなときは、
相手に先んじて堂々とこう言えばいい。


「お願いだから、もうしばらく居させてください」


すると、店長らしき人物は毅然とした態度で告げる。







「もう閉店ですから」







貴方は少しだけ驚いた仕草を見せ、腕時計をちらっと覗く。

時刻を確認して軽く頷き、読みかけの本をレジへ差し出す。

会計の前に思い直して、他に気になっていた本も数冊購入する。

もし、長居への侘びだと都合良く受け取られれば、それは幸運だ。

本屋を出た貴方は、家路へ向かうために駅前のバス停へ向かう。

時刻表を確認すると、次の便が来るのは20分後だ。

貴方はバス待ちの列に並び、買ったばかりの本の表紙をを開く。

急に冷え込むようになった夜の空気が、いささか湿っぽい。

空の様子は暗闇で見えないが、雨が降り出しそうな気配だ。

明日、雨にならなければいいのだが。

そう思いながら、貴方は空に向けた視線を再び手元に戻す。

僅かな灯りの下、規則正しく印刷された細長い文字列を追う。

目で追いつつも、やがて貴方は、ある結論に至る。















「やっぱ、病院行こ」










もちろん、待合室で長時間待たされることは承知の上だ。
待っているあいだは、さっき購入した本を読めばいい。


読書の秋である。



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言葉のマジック

言葉は、コミュニケーション手段における単なるツールである。
しかしながら、その見方によって、また、解釈の仕方によっては、
時として、窮地を救ってくれるということを忘れてはならない。

例えば、忙しいとき。

バタバタし、ゴタゴタし、イライラする。思うように進まない。
しかも、忙しいときに限って、やっかいな問題が起こる。
事態が更に複雑になって「忙しい、忙しい」と嘆いてしまう。

そんなとき、背後からボソッと声が聞こえるのだった。



「“忙しい”って言葉は、
 “心を亡くす”って書くんだよ」




嗚呼、確かにそうだ。
僕はどうかしていたよ、ハニー。
君のおかげで助かった、ありがとう。

その言葉で、彼は冷静な心を取り戻すのだった。


また例えば、大変なとき。

まるで時代劇の岡っ引きのように「大変だ、大変だ」と繰り返す。
そういう者に限って、本当は大して大変じゃなかったりするが、
本人にとっては一大事らしく「大変だ、大変だ」と嘆いてしまう。

そんなとき、背後からボソッと声が聞こえるのだった。



「“大変”って言葉は、
 “大きく変われる”って書くんだよ」




嗚呼、確かにそうだ。
僕はどうかしていたよ、ハニー。
君のおかげで助かった、ありがとう。

その言葉で、彼はやる気に満ち溢れるのだった。


他にも、
「“儲ける”は“信じる者”と書く」とか「髪は“長い友だち”」とか、
慣れ親しんだ言葉も、解釈の仕方ひとつで“ハッ”と気づかされ、
気持ちが入れ替わることで、救われたり、やる気になったりする。

もはや“言葉のマジック”と言っても過言ではないだろう。


そしてもちろん、英単語においても同様のマジックは存在する。

例えば、こういうことだ。



“MASSAGE”は、ほんの少し変わるだけで
“MESSEGE”になる。




つまり、マッサージを施すという行為自体が、突き詰めれば、
「いつもご苦労さま」「頑張ってね」という無言の伝言になるのだった。

小さい頃、手製の肩たたき券を親にプレゼントした方もいるだろう。

たとえ、それがお小遣い目当てだったとしても、
その裏に深い意味が隠されていたかと思うと、実に温かみのある、
気持ちのこもったコミュニケーションだとを気づかされる。


最後に、僕が大好きな言葉のマジックを紹介したい。




“CHANGE”こそが“CHANCE”を生む。




そうなのである。
状況・環境を少し変えれば、そこにチャンスが生まれるのだ。
危機だと思っていたことも、見方を変えれば実は好機なのだ。

これまでの自分に捉われないで。
決して新しい変化を恐れないで。

行動の、気持ちの変化こそが、新たな道を切り開くのである。


ただし。
ひとつだけ、気をつけなければならないのは、
余計なものなど無いよね、とばかりに、一文字抜けてしまうと





CHAGE





になってしまう、ということである。

やはり、どんなに頑張っても、言葉は心を超えない。


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ゲシュタルト崩壊


まず、はじめに断っておく。

今回、僕が書こうとすることは『2ちゃんねる』をはじめ、
ネット上では、ある程度、いや、かなり知られていることだと思う。

だが、これから僕は、この件に関してご存知無い方に向けて書く。

しかも、かなり得意気に書く。

なので、既にご存知の方は、鼻で笑ってくれればそれで良い。
もちろん、ご存知の方にも楽しんでいただければ幸いだが、
その辺は、予めご了承いただきたい。


+++


皆さん、ご機嫌はいかがだろうか。

おかげさまで最近の僕は、専ら機嫌が良い。

何故か?

それは『ゲシュタルト崩壊』を目の当たりにできたからだ。

訳の解らない単語に、怯んでしまった方もいるかもしれない。
そもそも“ゲシュタルト”が何か、ご存知無いのではなかろうか。

そこで、まずは辞書を引用したい。


ゲシュタルト【(ドイツ)Gestalt】

〔哲・心〕一つの図形やメロディーのように、個々の要素の
総和以上のまとまった意味と構造をもち、変化・変換を通じて
維持される形姿。形態。

(三省堂提供「大辞林 第二版」より)




よって、この“ゲシュタルト”が“崩壊”するということ、それは即ち、
全体性を失ってしまい、個別のみを認識するようになること、である。

要するに、たとえば、我々が日常的に使っている“文字”であっても、
ずっと見ていると意味のない線の集合に思えてくる、そういうことだ。


そして、いま僕は“ゲシュタルト崩壊”に夢中なのである。

それどころか、自分だけで楽しむのは非常に勿体無いと思うし、
皆さんにも、この機会にぜひ、虜になっていただきたいと思う。

そんな想いから、今回は僕が愛すべき事例の数々を紹介しよう。


【事例その1】


にしこり



『NYヤンキース・松井秀喜』




どうだろう?
皆さんの眼には、日本が誇る大リーガーが映っただろうか?
「り」が彼特有の福耳を表わしているのが秀逸だ。

さあ、続けよう。


【事例その2】


にんこり



『ガンバ大阪・大黒将志』




一文字変えただけで、サッカーW杯予選突破の立役者になるのだった。
さらに、衝撃は続く。


【事例その3】


でつ



『スヌーピー』




まさか濁点が、チャーミングな眼に成り代わるとは。
感服するほかない。


【事例その4】


えワ



『ウッドストック』




これはまさに、アンビリーバブルである。
平仮名とカタカナのイリュージョンと呼ぶに相応しい。


僕は、これらの作品に痺れてしまった。
ある意味、エクスタシーである。
ウォーリーを探し当てたときの比ではないと断言できる。

皆さんも、同じ快楽を味わっていただけていることを願いつつ、
最後に、究極の事例を紹介したい。


【事例その5】







『水溜りに足を踏み入れる人』





嗚呼、駄目だ。もう勘弁してくれ、と許しを乞いたくなってくる。

今後の人生において、「を」を表現するときは、いつだって
『水溜りに足を踏み入れる人』を想起してしまうのだろうか。

ここまで来ると、僕の頭こそが崩壊してしまいそうだ。

僕の知っている文字とは、学んできた文字とは、いったい何だったのか。


そもそも“ゲシュタルト”っていったい何だ。


新しいタルトか? 美味いのか? 甘いのか?

そういえば、僕の故郷・愛媛には『一六タルト』なる銘菓がある。
故・伊丹十三氏の出演する一連の商品CMが秀逸であったことを、
いまでも覚えている。

味は忘れてしまったが、不味くはなかったはずだ。

そういえば『十三』は“横滑りするカカシ”に見えなくもない。



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